第七天国

二次創作とか管理職とかやってる女の日常

2本立て

出張の疲れで予定より遅く起きてしまったけど、なんとか昼前の『関心領域』を見に映画館へ。

そしてそのあとちょうどいいスケジュールで近くの映画館で『フュリオサ』やってるのを知り、ちょうど1日だしな…と思って2本立てにすることにした。なかなかハイカロリーな2本立てだな。

 

『関心領域』、『姑獲鳥の夏』の「耳は閉じることができない」の話を思い出した。耳は閉じることができないのに全く聞こえないことがある。

この映画で私の目を引いたのは庭の緑や家の中に飾られた花たち、家の中の調度品や家具の美しさ。ずっと美しいものに囲まれて暮らしている。なのに伴奏となっている塀の外からの叫び声、銃声が絶えず流れ続けている。

耳は閉じることができないから、聞こえているはずなのに聞いてはいない、たしかに自分の関心事以外は耳に入らないからそういうこともるあるだろう。けれども、この家の人たちは、奪った洋服やダイヤについて話し、身につけ、灰は肥料になり子どもは歯で遊ぶ。

そうしもなお、あの壁一枚隔てた先の世界はこの家ではなかったことにされる。主人公の不貞(というか何というか)も壁の外だから行える。

最後に主人公は階段の踊り場で吐き気を催すけど、ときどき暴力的な一面を見せる子どもたちや妻、なかなか泣き止まない赤ちゃんも、みんな聞こえていないけど無意識には確実に届いていて、それが表層に表れているんだろうと思わせる。

 

怖い映画だった。登場人物たちはみんな怖いが、自分も彼ら同じだと突きつけられるのが怖い。

 

日々の恐ろしい出来事の全てが自分のいる世界と地続きになっていて、そういうものから目を背けずアクションしていきたい。自分にとってはリツイートはアクションには入らないので、一度咀嚼して自分の言葉で感想を述べるか具体的な行動(署名や募金等)を起こすことで、そのときできることをやる。

そういうことを続けようと思うと同時に「できないときはやらない」とも思った。

 

この数年振り返って、自分にとっては「アクションしない」こともかなり大事だな、というのがこの最近ようやくわかった。

「いつか言及するかもしれないけれども今はできない、言えない」ことはたくさんある。頭の片隅にあることを言及するにはそれなりの時間がかかることがあるけど、時間をかけることを自分に許すことが難しい。少なくともSNSのように自分の意見も他人の意見もすごいスピードで流れる場所では。見たら反応しなくてはと思ってしまう。もちろん反応したくてしているのだけど、何%かは知らない誰かから急かされているという成分が入っている気がする。

だから時間と文字数の制限のないところにちまちま書いて残しておくことにした。

 

話が逸れ続けるけど、「虚像を現実と思ってとんでもない目にあう」ということが昨年自分の身に起こり、大げさでなく人生においてかなりの転換期であった。しかもそういうことがあったにも関わらず、その後も「もしかして、自分、全然反省してないのでは…?」と思い、恐ろしいというか虚しいというか呆れることがいまだにある。

 

そういうわけで「よく病まずに対処して生き延びたよね」と言われたら「メンタルが強いので…」と返すしかないのだけど、反省と自責の区別が多少はつくようになったのかなと思う。真剣と深刻も大いに違う。適度に自分の外と内に境界線を引き、調子を見ながら線を移動させる。

最近、生活や体の調子が上向いていると思ったけど(以前も悪くはなかったけど)、このへんのスキルが上がって、ストレスが少なくなったんだろうな。今までの行動、習慣のをいくつか変えたのもあるけど、よく考えたらそもそもがストレス由来だったのかもしれない。

 

だいぶとりとめがなくなったけど、自分の関心領域とアクションについて考えたことがブログのきっかけでもあったので、あまり整理しないで記録しておく。

 

あ、『フュリオサ』もすごくよかった。

デカい車はかっこよくてすごい!という5歳男児の気持ちになったし、フュリオサはずっと強く賢く美しかった。

でもさ…アニャ・テイラー=ジョイはいいよ…いいんだけどさ、シャーリーズ・セロン様でも見たかったよね…?大好きなので…

あと、全然映画の内容と関係ないんだが、エンドロールで客どうしが揉めて怒りのデスロードが始まり、それを見ていた通りすがりの男性2人が「あのひとすげー怒ってるな…どうしたんだろう」「目の前で母親か恋人を殺されたんだろ」という会話をしていて、フュリオサじゃねーんだよって吹いてしまった。

こんな怒りのデスロードで締めたくなかったです。っていうか怒りのデスロードも同時上映したらよかったんじゃないの?